ロゼッタストーン--守護神獣像--ネレイデスモニュメント--月神セレネの馬--ミイラ--猫ミイラ--ゲイヤーアンダーソンの猫
ラムセス2世の胸像--古王朝のエジプトの男性--アウグストゥスの頭部ブロンズ像
TheRosettaStoneロゼッタストーン
(高さ:114.4cm/幅:72.3cm/厚さ:27.9cm)ルーム4紀元前195年、エジプトのエルラシード町(ロゼッタ町)にて、
プトレマイオス5世を讃える布告が刻み込まれている。
1798年5月、ナポレオン軍はエジプトに遠征し、翌1799年、
エルラシード町(ロゼッタ町)近くに砦を造る際、フランスの砲兵士官が発見。
その後、フランス軍の敗退により1801年アレクサンドリア条約に基づきイギリス軍に没収され、
1802年に大英博物館で公開された。
玄武石の石版には上から神聖文字(ヒエログリフ)、民衆文字、ギリシャ文字が刻まれている。
ヒエログリフは4世紀の終わりに使用されなくなり、解読不可能であったが、
1822年、フランスのJeanFrançoisChampollionジャン・フランソワ・シャンポリオン(1790-1832)が
*神聖文字の解読に成功、その後のエジプト古代文字解読の鍵となった。
- *神聖文字(ヒエログリフ)
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ギリシャ語のヒエログリフとは「神聖な(hieros)」と「石で刻むため(gluptein)」を意味し、
現実のもの、動物や人などを絵としてまた、口頭の音の表現として使用されたが、西暦4世紀に滅びた。
Colossal winged bull from the Palace of SargonII
サルゴン2世の宮殿から発掘された守護神獣像
(高さ:4.42M/長さ:4.47M/重さ:約16000kg)ルーム10*アッシリア王サルゴン2世(BC721-705)の砦の入り口を守った守護神。
紀元前710-705年頃に造られた。
1842-1844年、フランスの考古学者Paul-Emile Bottaポール・エミール・ボッタによって
北イラクのコルサバードで発見された。
像は16000キロもある重さのため、像を運ぶのを諦め、その後1849年、
イギリス人のHenryRawlinsonヘンリー・ローリンソンがフランスから像を買い取り、
16トンの像を幾つかにのこぎりで切断した。
- *アッシリア王サルゴン2世(BC721-705)
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紀元前722年、ShalmanassarVシャルマナサル5世をクーデターで倒し王座に付いた。
即位後、イスラエル王国を滅ぼしサマリアを占領、その地にバビロニア・シリア人を移住させた。
前713年、サルゴン2世は新宮殿の建築を命じ、サルゴン城を築き、
紀元前707年に新都市をDur-Sharrukinドゥル・シャルキン(現在のコルサバード)に遷都した。
前705年、サルゴン2世は遠征中に戦死し、その後は息子のSennacheribセンナケリブ
(在位:前704-681年)が即位した。
NereidMonumentネレイデス・モニュメント
(像の高さ:140cm)ルーム17BC390-380頃に建てられた権力者の墓。
現南西トルコでSirCharlesFellowsチャールズ・フェロー卿によって発見され、
1842-1844年にイギリスに運ばれた。
像はギリシャ神話に登場する海神ネレウスとドリスの娘、
ネレイデス(50人から100人存在したとも云われている)。
土台の部分は*ペルシヤ戦争を表現している。
- *ペルシヤ戦争
- The Greek and Persian Warsペルシヤ戦争は、紀元前492年-449年まで、
アテネ、スパルタを中心としたギリシャ連合軍とアケメネス朝ペルシヤが行った戦争。
Head of a horse of Selene from the east pediment of the Parthenon
パルテノン神殿東破風彫刻 *1.月神セレネの馬
(長さ:83.3cm)ルーム181687年、トルコの火薬庫となっていた*2.パルテノン(アテネ、アクロポリス、紀元前447-432築)を
ベネチア軍の砲弾が命中し、パルテノンは爆発炎上、大きな損害を受ける。
1800世紀初頭、イギリスのLordElginエルギン卿が、オスマントルコ政府
(当時のギリシャはオスマン帝国の支配下だった)から許可を得て、
彫刻や彫像を模写させたり、型を取らせた。
しかし、ヨーロッパ各国がオスマン帝国の弱体化をきっかけに領土を狙うようになり、
エルギン卿はトルコ政府に他国の排除を持ちかけ、賄賂を渡すなどし、
型を取るという目的で発掘された彫像をそのままイギリスへ運んだ。
その後、1816年にエルギン卿は大英博物館に売却した。
1830年、ギリシャはオスマン帝国から独立、政府はイギリスに彫刻の返還を求めたが、
「イギリスの保存技術」を理由に現在も返還を拒否し続けている。
- *1.Seleneセレネ
- ギリシャ神話の月の女神。
『神統記』(ヘシオドス作の叙事詩)によると、ヒュペリオンとテイアの娘でエオスとヘリオスの姉妹。
月経と月との関連から 動植物の性生活・繁殖に影響力を持つとされた。
後にアルテミスやヘカテと同一視され、月が形を変えるように三つの顔を持つ、
魔法の女神とも考えられるようになった。
- *2.Parthenonパルテノン神殿
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前432年頃築。長さ68.7m、幅30.6m
古代ギリシャ時代にアテネのアクロポリス(城山)に建設された、守護神アテナ
(ゼウスの子、知識と技術、戦争と平和の神)を祀る神殿。
ペルシヤ戦争(紀元前492年-449年)で神殿は消失し、戦後、紀元前450年、
古代アテネの政治家Periklesペリクレス(前495頃-429)が、
ペルシアの報復に備えて集められた*3.デロス同盟 の資金を流用し、パルテノン神殿を復興させた。
工事監督は神殿中央のアテナ女神像を造ったフェイディアス(前490頃-430)。
アクロポリスはその後も神殿が建設され、紀元前421年にはエレクテイオン(パルテノン北正面)
の起工が行われ、紀元前420年にはペリクレスによって、ニケ殿(パルテノン西)が建設された。
通例、パルテノンは処女神殿と訳されるが、古代ギリシャ語では、パルテノスは単に 若い娘を意味する。
ローマ時代以降、アテネがローマ帝国に支配され、ローマ帝国でキリスト教が公認、
次いで国教となると、パルテノン神殿は聖母マリアに捧げられた大聖堂に改装され、
東方正教会の教会として用いられた。
ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。
- *3.デロス同盟
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サミラスの海戦(前480)後、中心となって戦ったアテネがアケメネス朝ペルシヤの脅威に備えて、
紀元前479年頃にエーゲ海一帯のエーゲ海の諸ポリス(独立した小都市国家) がつくった軍事同盟。
アテネを盟主として、資金や軍船を出し合って結成された。
デロス島(アテネの南東)に本部が設置され、参加ポリスが共同管理していたため、
デロス同盟と呼ばれた。
アテネはデロス同盟の盟主として他のポリスを支配したが、
これに反発したスパルタはペロポネソス同盟を率いてアテネと戦い、
前431年にペロポネソス戦争(前431-404)が起こり、アテネがスパルタに屈服すると、デロス同盟は解散した。
Egyptian mummiesエジプトのミイラ
ルーム62-64エジプト人は霊魂不滅とオシリス神が支配する死後の世界を信じてミイラをつくり
*「死者の書」を残した。
ミイラ化することは、古王国(前2850年頃-2250年頃)後期に起源を持つと考えられ、
当時は顔や手などの特別な体の部分を包んでいた。
ミイラ化の全工程はおよそ70日かかったと云われている。
- 内臓の器官は心臓と腎臓を除いて、左側が取り除かれた。
- 取り除かれた器官は乾燥させて包み、壺に入れられるか、後に体の内部に再び戻された。
- 脳はしばしば鼻から取り出され、捨てられた。
- ソーダ石や塩で体の中や外側を包み、40日かけて全ての湿気を取り除いた。
- その後、遺体はアロマイオイルや合成樹脂で拭かれてから包帯や、しばしば破いた麻布で巻かれた。
個人がどのように生き、どのように死亡したのか、詳しい情報を明らかにし、
肺ガンや骨関節症、結核、寄生虫などによる病気の状況を確認することが出来た。
- *死者の書
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「私は人々に対し不正を犯したことはありません。」
「人々を虐待したことはありません。」
「正義の場で罪を犯したことはありません。」
「神を冒涜したことはありません。」
「貧しい者の財産を削ったことはありません。」
「殺したことはありません。」
「私の町の聖なる場所で姦淫を犯したことはありません。」
「畑の広さをごまかしたことはありません。」
「天秤の分銅を余計に加えたことはありません。」
冥界の王であるオシリス神の裁きは生前の行為に基づいて行なわれると信じられていた。
Mummy of a cat猫ミイラ
(高さ:46cm) ルーム62猫が最初に人間に飼われ始めたのは前2000年頃のエジプトと云われ、
農作物をネズミや小動物の被害から守った。
古代エジプトでは猫は神聖な動物とされ、大切にされミイラにして埋葬された。
エジプトの歴史でごく最近(西暦1世紀頃)にミイラ化された。
the Gayer-Anderson catゲイヤー・アンダーソンの猫
(高さ:42cm/幅:13cm) ルーム62紀元前600年頃。
女神*1バテスト神の化身。
- *1バテスト神
- *2太陽神ラーの娘。
デルタ地方にある、Bubastisブバスティス(前3200頃の都市で巡礼地。前350年頃、ペルシャ人によって破壊)
でバステト神が盛んに崇拝されていた。
洪水が起こる地方では水の神、争いの多い地方では戦いの神、
穀物を栽培している地方では豊穣の神として崇めれれた。
初めは牝ライオンの姿をしていたが、第18王朝からは猫の姿に変化した。
- *2太陽神ラー
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ヘリオポリスの太陽神。
日輪また、聖蛇ウラエウスを頭上に載せた、人物の姿で現される。
しばしばホルス(両眼が月と太陽である天空の神。ハヤブサあるいはハヤブサ頭を持つ人物の姿であらわされた)
の頭をしている。
神界においては、世界秩序の主、最高裁判官としての主導的地位を占めていた。
太陽の船に乗り、昼は天空を、夜は天の女神ヌトの胎内、
または地下の冥界を航行し、再び東天に復活するとされた。
第5王朝の頃から国王の称号に太陽神の息子サァ・ラーが加わり国家の神となった。
Colossal bust of Ramesses II, the 'Younger Memnon'
*ラムセス2世の胸像“若きメムノン”
(重さ:7.25トン/花崗岩) ルーム4画像
前1250年頃。
1816年にGiovanniBelzoniジョヴァンニ・ベルツォーニによってテーベのナイル西岸、
ラムセウム葬祭殿で出土。
胴の右の上の穴は、18世紀の終わりのナポレオンのエジプト遠征のメンバーによって、
像を取り出す際に作られたと言われている。
- *ラムセス2世
- ラムセス2世は、前1305年に、当時ファラオ(王)であった父SethosIセティ1世の次男として生まれ、
新王国時代第19王朝(前1279年〜前1213年)、前1270年頃即位し、67年間エジプトを支配した。
王位に就く前から、寝殿造りをし、アブ・シンベル神殿(世界遺産登録、前1250年頃築)や、
ラムセウム(葬祭殿)の建設、カルナク神殿(第12王朝以降の歴代王が、アメン神に捧げる神殿として増築)、
ルクソール神殿(ほとんどはアメンヘテプ3世とラムセス2世が建設)の増築にも着手し、
王妃ネフェルタリのためにアブ・シンベルに小神殿も建設し、
多くの記念建築を行ったことから建築王とも呼ばれた。
Predynastic Egyptian Man古王朝のエジプトの男性
ルーム64画像
前3400年頃。
エジプト、ゲベレインにて発掘。
この男性は、5000年前以上死亡した。
体は浅い砂漠墓に置かれ、熱い乾性砂が人体の75%を構成する水を吸収したため、腐敗しなかった。
湿気なしでバクテリアは育たないので、腐敗を引き起こすことがなく、体は腐敗せずに保存された。
髪から足のつま先まで、このミイラの保存状態は良い。
Bronze head of Augustusアウグストゥスのブロンズ像
(高さ:47.75cm) ルーム70画像
アウグストゥスの像は、エジプト、ナイル川の近くの町で立てられた。
紀元前27年、カエサル(シーザー)の養子(実の甥)、オクタヴィアヌス(前63-後14)が、
元老院から“尊厳なる者”の意味を持つ、アウグストゥスの尊称を受け、初代ローマ皇帝(位前27-後14)となった。
カエサル(前100頃-44)は文武に優れた政治家だったが、元老院を軽視して独裁に走ったため、
紀元前44年3月15日、ブルートゥス(前85-42)らの共和主義者に暗殺された。
「ブルートゥス、お前もか、、、。」という有名な台詞はシェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」 の台詞で、
実際には「息子よ、お前もか、、、。」と云ったと伝えられている。
翌、前43年、カエサルの養子オクタヴィアヌスと、カエサルの部下アントニウス(前82-30)、
レピドゥス(前?-30)らによる第二回三頭政治が始まった。
紀元前31年、東方でプトレマイオス朝の女王クレオパトラ(位前51-30)と結んだアントニウスを、
オクタヴィアヌスがアクティウムの海戦で破り、エジプトを占領した。 更新:08/2005